December 07, 2004

ムーティ/ミラノスカラ座/ヴェルディ「マクベス」

東京文化会館でミラノスカラ座来日公演のベルディ歌劇「マクベス」を観る。
指揮はR.ムーティ、演出はG.ヴィック。マクベス役はA.ガザーレ、バンクォー役はI.アブドラザコフ、マクベス夫人役はP.マッローク。
舞台には大きなキューブ。舞台全体が右から左に傾斜している。キューブにライティングすることにより、場面ごとの状況、マクベスやマクベス夫人の心理描写などを行う。
第1幕:キューブの一面が開いていて階段がある。マクベスとバンクォーが凱旋中で会う魔女達は皆ブルーで統一された衣装と化粧をしている。いつも手先を動かしているが、これは何を意味するのだろうか不明。マクベスもバンクォーも赤の衣装。マクベスは基本的に戦いと殺人のドラマ、ゆえに演劇の世界でも赤を基調とした衣装が多い。マクベス夫人も赤のドレスに身を包んでおり、これから企む殺人の数々を暗示させる。
この日は、夫人役が変更となった。いわゆる表の歌手であるマッロークが不調のセルジャンに代わって出演した。まことに堅実なソプラノで、聞かせどころはしっかりと表現していた。安定感のある歌唱と豊かな表情。マクベスのガザーレは、第一幕ではやや一本調子な感じがした。マクベスにふりかかる運命への予感をもう少しメリハリをつけながら表現してほしかった。バンクォー役のアブドラザコフは立派な歌唱、しかし影の薄い感じの演出だ。
ダンカン王の殺人はキューブの中で隠した。ダンカン王入城のシーンはあたかも死刑を執行される犯罪者が入ってくるようにも見えた。これは要再考だ。
第2幕:バンクォー殺害の幕。「この国はどうなる。血塗られた国」の合唱はリアリティがある。マクベスもマクベス夫人も黄色の衣装に替えて登場する。既にマクベスの刺客にバンクォーは殺され(これも舞台の裏で隠す)、その子供が生き延びる。第一幕で魔女達が「バンクォーは国王の父になる」と予言したが、子供が生き延びたことで、その後、マクベスとマクベス夫人もその予言に苦しみ新たな殺人を企てることになる。
国王就任のパーティで、国王やバンクォーの亡霊を見るマクベスは取り乱す。殺人のシーンは表に出さず、生々しさを消しているが、赤い衣装に身をまとっているバンクォーの亡霊が何度も舞台を右から左に動くところなどはおどろおどろしい。しかしマクベスの錯乱も穏やかな演出。この幕でも合唱団の実力を実感できる。闇の中の刺客の合唱、特にピアニシモの部分は鳥肌がたつほどだ。
第3幕:森の中の洞窟。合唱とダンス、管弦楽が主役の幕。ムーティの指揮が際だつ。うまくオケを統率し、まろやかな曲づくりをしている。オケは細やかで、このオケがこれほどまでに洗練されているとは正直言って想像もしていなかった。
精霊の踊りはモダンダンスを基調にしたもの。何人かはワイヤーで舞台上部につるされながら空中でダンスをする。この演出の見所なのだろうが、私にはよくわからない。この幕は青で統一されたなかマクベスとマクベス夫人が黄色の衣装。亡霊として現れるバンクォーが赤の衣装。
基本的にマクベスは夜の劇で、その中でもこの場面は長く長く暗い劇だ。魔女達に再び予言を求めてきたマクベスは3つの予言を聞き、またしてもそれらに縛られることになる。
第4幕:バーナムの森近く、マクベスの圧政に苦しむ人々が集まっている。今回の訳者は、この人々を「難民」と訳した。現代風だ。人々はマクベスを討つべく立ち上がる決意をする。この幕の合唱は混声だが、すばらしい出来だ。水色の衣装を着た人々が、衣装の裏側の緑色を見せながら立ち上がるシーンは視覚的にきれい。
魔女達にマクベスは、「バーナムの森が動かない限り安泰だ」と言われたが、彼らが木々に扮して大移動したことで、マクベスはいよいよ運命を悟る。緑は平和のイメージもあるのだろう。
一方、マクベス夫人は発狂し、夜な夜な夢遊病者のように彷徨する。この有名なシーンは白の衣装。もはや権力をどん欲に求めた婦人ではなく、ただの狂人ということか。マクダフ、マルコムともに赤い戦いの衣装。マクベスは黄色のまま。マクベスがマクダフに討たれるシーンも舞台の外。マクダフたちに赤の衣装を着させたことは、この先、血を血で洗う時代が続くことを表そうとしたのか(これは深読みかも)。
あくまでも色彩で演出する。その意図は十分に理解できる。おどろおどろしいだけのマクベスは、演劇他でもこれまでずいぶん見せられてきた。それを排除したかったということなのだろうか。しかし歌手へはかなり細かに心理描写を要求していたように感じた。

 Musical Concept(4×6=24)
 Artistic Impression(4.5×4=18)
 Technic(4.5×2=9)
 Control(4×4=16)
 Dynamics(4×2=8)
 Elegancy(4.5×2=9) 合計 84点

(2003年9月13日記)

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December 04, 2004

ハーディング/マーラー・チェンバー・オーケストラ/ベートーヴェン「運命」

今日から秋のコンサートシリーズ。クラシックを中心にポップスも聴きに行くが、今回から数値的評価を行ってみたい。
基本的なクライテリアは以下の6つ、それぞれ5点満点で評価し、それぞれ異なる掛け率を与える。

 Musical Concept(5×6)
 Artistic Impression(5×4)
 Technic(5×2)
 Control(5×4)
 Dynamics(5×2)
 Elegancy(5×2) 100満点

演奏は指揮者もソリストもオケも、そしてオペラの場合、歌手、合唱団を含めたトータルで考える。歌手が良いだけのオペラや、ソリストの演奏だけがよい協奏曲などはあり得ないと考える。

今日は、サントリーホールにて、ダイニエル・ハーディング指揮のマーラー・チェンバー・オーケストラ。昨年ハーディングが来日したときは、ドイツ・カンマー・オーケストラ・ブレーメンを率いてきたが、アバドが育てたこのオーケストラを俊英ハーディングは完全に統率している。
今日はべートーヴェンの「アテネの廃墟」序曲(初めて聴いた曲)、交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」、同5番ハ短調作品67「運命」の三曲、これに同4番の第4楽章がアンコールにこたえて演奏された。今日の評価の対象は「運命」に絞る。

 Musical Concept(5×6=30)
 Artistic Impression(3.5×4=14)
 Technic(4×2=8)
 Control(4×4=16)
 Dynamics(4×2=8)
 Elegancy(3.5×2=7) 合計 83点

明解な解釈で、今日的な演奏だ。古楽の楽器を一部取り入れ、奏法も古学的、しかし今日的なセンス溢れるものなのだ。リズムの変化はそれほど激しくはないが、木管の独奏のところにくると、まるでオペラのアリアのようにじっくり歌わせる。とてもメリハリのある演奏だ。
「田園」はやや散漫な感じがした。特に最終楽章は、うまくアンサンブルが整わない部分もあった。「田園」と「運命」を通して聞いてみると圧倒的に「田園」の方がコントロールが難しいことがわかった。4番の第4楽章は颯爽とした演奏で好感が持てた。フルオーケストラでない分、スピード感が全面に出てくる。やや一本調子のところがあるが、年輪を重ねるに従い、さらに良くなるだろう。 
(2003年9月9日記)

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November 27, 2004

小林研一郎/ハンガリー国立フィル/ブルックナー第8番

サントリーホールで小林研一郎指揮のハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を聴く。
通称「コバケン」のコンサートは本年2度目で、前回が日本フィルとのブルックナー交響曲第8番、今回はマーラー交響曲5番である。「炎のコバケン」と言われるように、いつも熱い演奏をしてくれる小林氏であるが、彼の最大の美点が今日わかったような気がした。
今日私が座った座席は、オーケストラの裏、いわゆるP席で、ちょうど指揮者小林氏を真正面から見ることになる。その指揮ぶりを見ながら聴いていくと、テンポは中庸、とりたててクセのあるフレージングをするわけではないが、フォルテの部分になると各演奏者のエネルギーをタイミング良く、しかも細心の注意を払ってうまく引き出す。パワーというより、むしろ繊細さといってもよい、引き出し方だ。ゆえにフォルテが濁らない。しっかりと低音パートの音は足もとの這い、金管も木管もきれいに天井に抜ける。今日のオケは弦が特に渋く、しっとりしていたため、フォルテにおけるアンサンブルがとても新鮮に感じられた。
小林氏は、万雷の拍手を止めて、いろいろ話をする。基本的にはお礼の挨拶だが、今日はハンガリー語と日本語が似ていることを団員の口で発音させて、一所懸命説明していた。アンコールは3曲、なかでもブラームスのハンガリー舞曲の弦の響きは生涯忘れることはないだろう。コバケンが指揮棒で指し示した天井で、ブルックナーがニコニコ笑いながら聴いているように思える、良質なコンサートだった。
(2003年6月30日記)

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November 25, 2004

小澤征爾オペラプロジェクト「ドン・ジョバンニ」

神奈川県民ホールへ。小澤征爾音楽塾オペラプロジェクトⅢのモーツアルト歌劇「ドン・ジョバンニ」を聴きに行く。
演奏は、若手中心のオーケストラとコーラスに、世界のオペラハウスで活躍する中堅歌手の組み合わせで、それなりに楽しめるものであったが、一方で聴衆のレベルの低さにビックリした。コンサートマスターが入場、オケが音あわせに入っても、私語でぺちゃっくちゃ、ぺちゃくちゃとホールがいっこうに静かにならない。
「ドン・ジョバンニ」はコミカルな部分も多いので、普通に演出しても吹き出してしまう部分が多いが、今日の演出では、やや過度にそのコミカルな面を押し出してたため、そのたびに声をあげて笑ったり、連れと話をしたりするものが多かった。、もしそのような人物の隣に座ったら、さぞかし神経をつかったことだろう。また、全体に咳やくしゃみのノイズが多く、自制が不足しているところもとても気になった。
それ以上にあっけにとられたのは、第二幕最後でドン・ジョバンニが騎士長の亡霊に連れ去られ、オーケストラが一旦、区切りをつけエピローグに入る前に、かなり多くの聴衆たちが拍手をしてしまったことだ。終わったのだと勘違いしのだろう。いくら小澤目当てでも、「ドン・ジョバンニ」を通しで一度くらいは聴いてから来て欲しいものだ。
彼らのような聴衆がウィーンまで押しかけて、これをやってしまったら、日本の音楽ファンのレベルの低さを世界に晒してしまうことになる。
音楽を聴くには、それ相応の勉強が必要である。いきなり実演を聴きに行くのではなく、本やCD、ビデオなどを通じて作品世界を理解するとともに、自身の中に音楽に関するストックを置く場所を作っておく。もちろん聴くときのマナーも、最初のうちは周りをキョロキョロしながら体得していく。ちなみに私など、30年前15歳の時の初めてのクラシックコンサート経験は、緊張してしまって、何を聴いていたのかわからないほどであった。
最近の小澤ブームでクラシックを聴き始めたおじさん、おばさんには理解してもらいたいことは多いが、かなわぬことなのだろうなあ。近年、北アルプスで見た光景、感じた雰囲気とそっくり。ただただ、「嗚呼、あぁ」である。
(2002年5月12日記)

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November 18, 2004

バレンボイム/ベルリン国立歌劇場「ニーベルングの指輪」第三夜

いよいよ最後の「神々の黄昏」全三幕。期待以上の出来、一幕ごとに気づいた点を記す。
(序幕及び第一幕)
運命の糸を紡ぐノルンが語るシーン。舞台上には糸に見立てた縄が複雑に絡み合い、そこに白を基調としたライトが当たっている。怪しく銀色、金色にも輝く。背景は、格子の後ろに一見見慣れた風景がある。どうやら現代の大都会の夜景で、ニューヨークのマンハッタンのよう。ノルン達が語りべとしてまさに今我々の前に現れて、昔の出来事を語っているような雰囲気を醸し出している。
旅に出たジークフリートがたどり着いたギービヒ家は、シンプルでモダンな舞台。客席からみて左奥にパラボラアンテナのような放射光施設のようなものが置かれていて、明るく光を放っている。第一幕は、アルベリヒの子ハーゲンの策略に支配された幕であるが、記憶を失う薬の入った酒をハーゲンからすすめられ、存外あっけなくジークフリートが飲み干してしてしまいブリュンヒンデの存在を忘れ、無邪気にグートルーネに求愛する一連は、もう一工夫あっても良かったように思う。まあ無邪気で粗野な面をまだまだ残しているジークフリートの性格からすれば、こうした演出はうなづけるところ。
その後、ワルキューレの一人ワルトラウテがブリュンヒンデの自宅を訪れ、指輪のラインの乙女に返えせと説得するシーンがある。ワルトラウテ役をマイヤーが務めたが、本当にこの人の歌唱力、演技力はすばらしいものがある。ブリュンヒンデ役のボラスキも「黄昏」ではとても立派だったが、この場面だけは、やはりマイヤーとの比較においてまだまだという感じ。
次のシーンが第一幕最大の見せ場、ジークフリートがギービヒ家の若殿グンターに化けて、自分の妻であるブリュンヒンデをレイプするシーン。実際にどこまでのことが起きたかはそもそも台本上描かれていないが、この場面最後にブリュンヒンデは抵抗をあきらめ寝室に案内する。このあたりの演出はやはりなかなか難しいのか。あまりびっくりするようなものではなかった。ポイントとなるノートゥングの役割も、私には際だったものには感じられなかった。
ここでは隠しておこうという意図なのか。いずれにしても、このあたりからブリュンヒンデ役のポラスキの好演が目立つようになる。
(第二幕)
細やかな演出が隅々まで行き届いた第二幕。
パラボラアンテナが据えられた塔の上に、ハーゲンが一人坐っている。そこに亡き父アルベリヒが夢遊病者のように現れる。ハーゲンの夢のなかという設定だが、亡霊が現れて子に遺言を伝えるような演出だ。
「指輪」のなかでも最も暗い場面だが、二人のバス(フォン・カンネン、ダル・モンテ)の歌唱が素晴らしく、デモーニッシュなイメージが強く打ち出されてた。バレンボイムの指揮とそれに応えるベルリン・シュターツカペレの演奏も素晴らしい。ハーゲンは、その塔の上からギービヒ家の軍勢を呼び寄せる。衣裳は20世紀半ばの欧州の平均的な衣服で、男のなかには、鉄砲の銃弾を肩から下げている者もいる。ブリュンヒンデは、まるで捕らえられた獣(熊か何
かのよう)に荒縄の網にくるまれて男達の手で運ばれてくる。呆然とするブリュンヒンデ、しかしひとり真実を訴えつつ苦悩する姿が印象的で、とてもインパクトのある演出だ。
ブリュンヒンデは復習を決意し、ハーゲンにジークフリートの弱点が背中であることを教えてしまう。いよいよジークフリート殺害計画の始まり。表情を失ったブリュンヒンデが、塔の上から降りかけたところで幕が降りた。
ところでグンター役のシュミットは、なかなかの美男子だった。脳天気なおぼっちゃまの雰囲気を良く出していたが、歌唱力は平均点と言うところか。またグートルーネ役のへーンはやや声量不足に感じた。
(第三幕)
第三幕の最初は狩りの場面。ワーグナーが、最後の幕の冒頭でラインの乙女達を登場させ、ジークフリートへの説得を試みさせたのは、ジークフリートへの愛情ではないかと常々思っている。最後まで指輪の返還を説得をしてみる。ジークフリートとブリュンヒンデの末永い幸せの道を探ったのではないかという気がする。しかしジークフリートは指輪に固執する。
この場面は、河床をイメージしメタリックな装飾が施されている板が斜めに据えられ、そこに開いたいくつかの穴から、アトランダムに乙女達が顔を出して歌う。コケティッシュなイメージとデモーニッシュなイメージが交互に現れ印象的だった。
いよいよジークフリートの殺害です。ジークフリートは記憶の戻る薬を酒とともに飲まされ、鳥の声が理解できるようになったこと、ブリュンヒンデとの出会いのことなどを話す。しかしハーゲンは機を見て、ジークフリートの背をひとつきにする。血しぶきが飛ぶ。最後の力を振り絞ってジークフリートは歌う。素晴らしい歌唱だった。
ハーゲンは、ジークフリートの手から指輪を取ろうとするが、既に息絶えたはずのジークフリートの腕がゆっくり上がり、それを拒絶する。ジークフリートがグンターに化けて彼女を襲ったとき、ノートゥングが二人を隔てたことも告白する。この部分は、ワーグナーの台本でも矛盾が指摘されているところだが、私はやはりブリュンヒンデの言葉を信じたい。今回の演出は今ひとつそれを明確にしていなかった。
ブリュンヒンデは、遺体のまわりに薪を積ませ、有名な自己犠牲の歌を歌い始める。ここはもう論評をすることは野暮だと思う、とても素晴らしい歌唱だった。オケもゆったりと、深く大きくうねっていく。
ジークフリートとブリュンヒンデが炎に包まれ、ヴァルハル城も炎上するシーンは、煙と赤系のライティングによるもの。シンプルだがなかなか綺麗で、何故かこれで良かったのだと納得させられてしまう。しかし黄や赤のライトが点滅したのはどうかなとも思った。
そして、最後の場面はアルベリヒが登場。既に指輪は死を覚悟したブリュンヒンデの手にあるが、炎のなかに消えていくブリュンヒンデの手からアルベリヒが指輪を取り上げる。しかしその指輪は、アルベリヒが頭上にかかげた途端、粉々に崩れてしまう。
舞台に残されたのは、アルベリヒと小さな子供が二人。二人の子供は、ぼろぼろの服を着て、煤だらけの顔をし、やはり黒こげの細い木の幹を持っている。それを地面に挿し、支えたところで幕がおりた。
そういえば、ジークフリートの送葬のシーンでウォータンが旅人の格好で現れた。もちろん無
言。その場には、ブリュンヒンデも居合わせ、二人はジークフリートを中心に対角線上で見つめ合う。なかなか印象的なシーンだった。
本来であれば、カーテンコールには参加せず、ブリュンヒンデの「神々よ、事の次第を知るがよい」という訴えを受け止め、自問自答しながら帰路に着くべきだったが、さすがにすぐには立ち上がれず、しばらく呆然とカーテンコールを見ていた。
(2002年1月23日記)

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November 14, 2004

バレンボイム/ベルリン国立歌劇場「ニーベルングの指輪」第二夜

今日は、第二夜「ジークフリート」(神奈川県民ホール)全三幕4時間。
実は、「ジークフリート」を普段ビデオ等で見ることはほとんどない。音楽的に優れている第三幕をCDやLPで流すように聴く以外、この「ジークフリート」とはあまり縁が持てないのだ。そもそも、ジークフリートを英雄とする設定が理解できない。ウォータンの人間に産ませた双子の兄妹の近親相姦によってこの世に生を受けたジークフリートが、ニーベルング族のミーメに育てられていることも腑に落ちない。粗野で、森で遊び呆けているジークフリートが、折れてしまったノートゥンクを鋳造し直すが、これは神の血のなせるものなのだろうか。この辺りからなんとか話を追う姿勢を保とうという気にかろうじてなる。しかししつこいようだが、ジークフリートを英雄とし、第二夜4時間全体の主役に据える必要があるのか、と思ってしまう。
今夜の舞台を見て、この第一幕が存外おもしろいことに気づかされた。航空機のジェットエンジンを前から見たような巨大なふいごが、三層の工場のような建物の中央に配されている。本来は洞穴なのであるが、モダンでなかなかダイナミックな舞台装置である。この舞台で駆け回ったのがミーメ役のグレアム・クラーク。この人は序夜「ラインの黄金」において、火の神ローゲを演じた人。初日も良かったが、今日はそれ以上の出来で、歌唱力、演技力とも完璧。ジークフリートを演じたクリスティアン・フランツの荒々しい性格をうまく引き出し、際だせる役を果たしていた。今日はさすらいの旅人となっているウォータンも、神の威厳を捨てたところで、シュトルックマンの性格にあったものになった。この三人の男性歌手の歌唱、演技により、すばらしい第一幕となった。
第二幕は、巨人ファーフナーが化けた大蛇をジークフリートが殺すところが見所である。やや大仰な演出と舞台装置は鼻についた。ジークフリートが大蛇を倒したあと、黄金の指輪と隠れ兜を手に入れ、それを狙うミーメを殺すことになるのだが、これだけ上手いミーメだと、ここで殺されず逃げ延びさせて、第三夜で再び登場させ、神々の世界の崩壊に絡んで欲しいとも願ってしまう。なお、鳥の歌を歌ったのは天羽明恵、本来、コロラトゥーラが歌うのだ
が、天羽はやや低めのベルカント風の歌い方である。
第三幕は、ベルリンシュターツカペレの柔らかな管弦楽の叙情的流れに身を任せることができて、とても心地良かった。またエルダを地底から呼び出し訳のわからぬ質問をし、結局エルダがそれに答えないと、地底深くに追いやったウォータンの歌唱もなかなか良かった。なんとなく破綻寸前の金融機関の頭取のようで、可笑しくもあった。
有名なシーンはもちろん、ブリュンヒンデを炎に囲まれた岩山からジークフリートが救い出し、結ばれるまでの二人の心の揺れ動き。しかしこの二人は、ウォータンの孫と娘で、またしても近親相姦。底までして推し進めなければならないプロジェクトなのであろうか。この二人の心の揺れ動きが、第三幕の終盤での見もの聴きものなのだが、フランツとポラスキはこれを表現しきったか、といことが問題となる。やはり十分とは言うことはできまい。ブリュンヒンデなどは、なんとなく仕方なく、という感じでジークフリートとやってしまったという雰囲気があった。はやり確信犯的にジークフリートに身を任せて欲しいのだ。
ブリュンヒンデは、終幕のシーンで神々の世界の崩壊を予言、熱望し歌うが、これはウォータンに対する二度目の裏切りである。ワルキューレからはずしはしたが、勇敢な男のみが越えられる炎に包まれた岩山に眠らせた父ウォータンへの感謝の念など全く感じられない熱唱である。これも当たり前の歌い方ではあるが、以前から疑問に思っていたところが解決されていない演出だ。
今日は、熟年カップルが非常に目がついた。「ワルキューレ」までは、若い女性が一人で譜面や歌詞を持参し熱心に見入るところが印象的だったが、今日は一転して子育てを終わったお金の余裕のある人々が多かった。土曜日のせいかな。
(2002年1月19日記)

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November 13, 2004

バレンボイム/ベルリン国立歌劇場「ニーベルングの指輪」第一夜

昨日に引き続き「ニーベルングの指輪」の観劇記(神奈川県民ホール)。今日は、第一夜「ワルキューレ」。全三幕約4時間。昨日とほぼ同じ位置の席だが、あきらかに今日のほうが観客の入りはよい。四夜通しで見る人ばかりではなく、そうなれば「ワルキューレ」に食指を動かす人が多い、というところか。
正直いうと、「ワルキューレ」の第一幕はあまり好きではない。クナの名盤「ワルキューレ第一幕」で「指輪」の作品世界を知った者としては、甚だ失礼な言いぐさであるが、兎も角、男女の愛欲、しかも兄、妹の近親相姦を1時間、見続けなければならないのはかなりしんどい。認知劇という古代ギリシャからの伝統的な形式に則るといわれるが、兄と妹が交わり、しかも身ごもってしまうというストーリーは、やはりついていけない。とはいっても、「ワルキューレ」でジークリンデがジークムントの子を身ごもらなければ、ここで話は終わってしまう。我慢して聴く。もちろん音楽は「指輪」のなかでも屈指の良さであるから、このような時には、目を瞑ってひたすら音楽に身を任せることが適切。ドイツ語がわからないのも、この際有利に働く。引き続く第二幕、第三幕は、歌手陣の細かな表情などをオペラグラスで確認しながら、じっくりと見、聴く。
今日のオーケストラは、第一音が合わないとか、金管が裏返ってしまうとか、まだまだ問題は残っているが、昨日に比べると、随分と鳴るようになっている。バレンボエムの指揮は、緩急と強弱にメリハリが適度にあって聴きやすい。ややテンポが速い感じがするが、現代の「指輪」には、この位のテンポがよいのだろう。弦のアンサンブルの細やかさなどが随所に聞かれるようになってきており、今日時点でも満足できるものだったと思う。
歌手陣は、ヴォータン役のシュトルックマンが、昨日に比べ格段と良くなった感じ。もちろん「ワルキューレ」では意志をはっきりさせる全神としての立場があり、その状況と声のトーンがピタリとはまった。しかし今日の聴きものは、何といってもジークリンデ役のワルトラウト・マイヤーだ。全く破綻なく、全三幕を通じ、場面ごとの状況をリードする叙情的歌唱を披露、豊かに歌い上げた。カーテンコールの拍手もNo.1。
ブリュンヒンデ役のデポラ・ポラスキも立派だったが、どちらかというと第三幕終盤の父ヴォータンとの別れのシーンなどでフィットするタイプ。体つきは男のようだが(失礼)、第二幕などの勇ましい戦乙女を演ずる場面では、声が少し弱く優しすぎるように思える。
1日お休みで、次の「ジークフリート」は土曜日。
(2002年1月17日記)

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November 12, 2004

バレンボイム/ベルリン国立歌劇場「ニーベルングの指輪」序夜

今日から、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」の観劇記(神奈川県民ホール)。ベルリン国立歌劇場の引っ越し公演で、指揮ダニエル・バレンボエム、演出ハリー・クプファー、舞台美術ハンス・シャヴァーノホなどの舞台。今日は、序夜「ラインの黄金」(4場2時間半)で、14時間にもおよぶ楽劇のスタート。
兎も角、1週間の間に、「指輪」の四夜聴くことなど、おそらく一生に一度あるかないかの体験、多少大仰に言えば人生のハイライトでもある。今年はサッカーのワールドカップだと世間は騒ぐが、私にとっての2002年は、やはりこの「指輪」である。
さすがに舞台の狭さは否めないが、最近の「指輪」の舞台としては、比較的オーソドックスなもので、充分日本の舞台でもダイナミックな感じは出せていると思う。歌手陣は揃っているが、ラインの乙女のひとりとヴォータン(ファルク・シュトルックマン)の前半があまりよくなかったような感じがした。すばらしかったのは、アルベリヒ(ギュンター・フォン・カンネン)とローゲ(グレアム・クラーク)だ。カーテンコールの中でも、この二人への拍手が圧倒的に多かった。役者としての表現力も抜群で、最後まで歌も安定していた。
オケはやや非力に聞こえたが、これは二階席のせいか。バレンボエムの統率は充分とれていたが、やや一本調子の感もあり。モダンな演出と舞台には、この位のオーケストラのサポートがちょうど良いのかもしれない。私の場合、普段は音だけで「指輪」を聴いているものだから、舞台を間近に見ながら聴くと、音楽に対する要求が異なってくる、ということを実感させられてしまう。言うまでもなくオペラは、音だけではない総合芸術なのだ。
最も期待していたヴァルハル城への入城のシーンは、やや安っぽかったかなというi印象。もちろん音楽は申し分なかったが...。(2002年1月16日記)



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