鉄道写真集
「鉄道放浪記」をデジブックというサービスではじめました。
見ていただければと思います。
難読
莨《たばこ》吸うものだけ占有しうる場所二十二階北神田見下ろす
令《いいつけ》をまもらざるもの左遷とぞ地上に落下してゆく木の葉
顳《こめかみ》に蚊の一匹が止まりたり払えどふたたび止まらんとす
谺《こだま》ひびく丸の内にはハレーション盛大に出るレンズをつかう
右にだけ出る靨《えくぼ》なる左より撮ればわずかに表情の増す
東京はマドリッドに亜《つ》ぎ三位なり夢見しものら睡りにつきぬ
「鎹《かすがい》は金だけ」という男いて冷静沈着ただただ無口
篦《へら》をもつ職人二十時すぎてなお白熱灯のもと仕事つづける
中川氏、秋の日の朝死す酒におぼれて死すと熟熟《つくづく》おもう
中川家に夫婦のともに睡る閨《ねや》なくてひとりであの世にゆきぬ
遖《あっぱれ》と賞賛されて死する人おらぬ時代にわれ生かさるる
磧《かわら》にはビニール袋の幾枚もうち上げらるる水かさの減り
上牧温泉辰巳館で開かれた短歌人の夏季全国集会に参加したときのこと、初日夜の講演会は、まひる野の柳宣宏氏による「反戦後短歌—山崎方代のことなど」であった。その冒頭で柳氏が、「短歌人の歌人たちの歌はうまい」と話された。入会してまだ日が浅かった私にも、その実感はあり、改めて短歌人を読み返してみてやはり、「うまい歌」が多かった。
原則的に、うれしい指摘だが、「うまい歌とは何か」「短歌人の歌がなぜうまいといわれるのか」を突きつめずにいるのはまずいという思いもわいた。
「うまい歌」とはいったいどのような歌なのか。比喩が巧みで韻律、リズムもよいということだけなのだろうか。読み手に自身の発見を届けるということならば、素直に詠えばそれでよいといえる。そうであるならば、柳氏の「うまい歌が多い」という指摘には、何らかの批判が隠されていると解すべきか。そうした観点から、最近の短歌人から「うまい歌」を引く。
紅白の山茶花ならび咲く見れば競ひて咲くとにんげんは言ふ
高田流子(〇九年二月号)
句跨りなどの活用でリズムをつくり、「咲く」の繰り返しと「にんげん」というひらがな表記で印象づけている。なにやら彼岸での一場面のようにも思えてくる。
奄美歌掛けて波音竪琴師里国隆師の影法師さ
泉慶章(〇九年二月号)
「師」の字が三つある。「師」は一音なので、音声上、たたみかけてくる強いインパクトはないが、目で見れば、うまく配置され、その存在感は際だつ。高名な書家に書いてもらえば、この歌の価値はさらに高まるような気がする。
うぶすなの女男の欅の頂になにか来てをり 春といふべし
武下奈々子(〇九年五月号)
ただ春の到来を詠っているようでいて、雌雄同株で雌雄異花を咲かせる欅に、複雑な男女関係を重ねている。この比喩は巧みだ。
この三首はそれぞれに個性的であり、歌たらしめるプロトコルが備わっている。そのプロトコルは誰もが理解可能なものなのだろうか。「その道の者にしかわからない歌ばかりでは、短歌は早晩、滅びる」というところまで、思いを馳せるべきなのであろうか。
(短歌人二〇〇九年九月号「三角点」掲載)
現実
子に乳を飲ませるはずの胸ねむる腹さすりたる妊婦のもとで
プライオリティシートに沈みこむからだ生きているのか死んでいるのか
ポイントに差しかかるときマタニティマークの揺れて顔をしかめる
背の高きサラリーマンが気づき立つ手招きすれば他のものきたる
席の空きすぐにうめらる強固なる意志もつものまた属性おんな
窓に顔ひとつうかびてたじろぎぬ阿修羅のごときわれの顔なり
台風のさりて風音弱まりて迷い込みたる蝉のさわぎぬ
カメムシのわが肩にある葉月尽changeは変化となりてせまり来
日の射して汗ふきながら三叉路をまがれば冷気のほどよくのこる
民主党政権樹立間近にてユーミンうたう「九月には帰らない」と
海水を飲み込むごとき心地する「生きるためには仕方がないか」
カフカかたる評論文を読みおもう脱官僚・政治主導の政策決定
子供
この森にカワセミの棲む赤土の斜面にカワセミ消えてゆきたり
とびながら排泄をするカワセミの瑠璃色いまだ眼裏にあり
つぎつぎと土鳩あつまる風ふかぬ森に通信線のみ揺るる
昨晩の花火の残り、カラムーチョ、オーザックなどの袋、散乱
陽の射さぬ噴水まわりに土鳩二羽ジャンクフード喰ういそがしく喰う
一心に食餌つづける土鳩には〈ニンゲン・コドモ〉とう天敵がおり
土鳩追う子供の足は意外にもはやく花壇に入るまで追う
雨つづく八月、噴水みずを吹く〈二時間限定〉に子供あつまる
足すべらせて子供はころぶ泣き声のひびき土鳩がいっせいにとぶ
動かざる蝉の幼虫まひるまになれどもいまだ抜け殻でなく
成虫にならざるままに死する夕、酔芙蓉の葉はただやわらかく
ノリピーが高相法子となり消える今夏はじめてクマゼミの鳴く
20章以降は、牛歩のごとく、ゆっくりと読んだ。「空気さなぎ」の行は、実に読みにくく、リアリティがどんどん薄れていく。このことをどう受け止めればよいのか、戸惑った。
最後の数章を迎えるまでは、現代小説らしい、深みのある村上作品らしいリアリティを楽しんだが、最後の数章は、村上の終幕を整えようとする気持ちと、終わらせたくないという気持ちが交錯し、物語を変質させてしまったのではないか。
いずれにしても、 何年かのちに、BOOK 3 4・・・がでるのだろう。このベストセラーの続編を書ききれば、村上は神になる(はず)。
家族を連れて、ずいぶん山に登ったが、自分が何度も登った経験のある山域、かつて小屋番をしていた山域ですら、緊張した。天候の判断に加え、登山道の状態などを把握しながら、ときには思い切った予定変更、撤退もした。
日本の夏山でも、間違えれば死ぬことを今回の事故は如実に示しているのだ。
トムラウシは、登った者の感覚からすれば、そもそもガイドツアーで登らせる山ではないが、業務上過失致死で捜査とは、警察の考え方もおかしいと思う。会社の関係者を逮捕したところで、問題は解決しない。
中高年の登山に対する心構え、体力増強の指南書でも、どこかがつくればよいと思うが、それでもこの夏、綺麗なお花畑の写真に誘われて、経験の浅い者たちが遭難と紙一重の状態で山には入るのだろう。
しかし登山のガイドツアーは、もうリスクがありすぎて、商売にならないだろう。中高年の経験の浅いハイカーが、本格的な登山の領域に入ってこなくなることを心から期待する。
鉄路
丸の内線のいくどか陽のもとに露わになりたるわけを知りたし
三ヶ月ほどまえ染井吉野咲きし四谷見附に汗をぬぐいぬ
ペンキまみれの作業着の男がふたり鉄路みつめる
東西線乗り入れ中止のアナウンスに老女さまよう〈動輪の広場〉
千代田線山手線を乗り継げば馬場にゆけるといえど拒みぬ
あくまでも「東西線で馬場にゆく」老婆はいえりわが目を見つめ
東西線とう名をもつ地下鉄わが国にいくつあるのか数えつつ聴く
昼間と夜間のすきまのようであり老婆とはなすこの数分は
南阿佐ヶ谷出口あたりにパトカーの静かにすすむひとかき分けて
女高生の帰宅をいそぐ道々に警視庁とう制服の立つ
旅をする時間も本を読む暇もなく四十年前の時刻表を買う
地下鉄の車庫は地上に息づきて無人の歩道を照らしておりぬ
景気
フラッパーゲートにカードをかざしたる後の静けさゲートひらかず
IDカード、カフェミストをもち昇降機の到着をまついつまでもまつ
地階より見慣れぬ顔が乗りてくるネクタイしめぬエコワークの月
慣れ親しむはToToであり海外製便器の座り心地をかなしむ
地下街の営業時間はとうに過ぎ通用門より追い出されたり
泡盛の酔いさますためのぼりゆく階にわかに雨音きこゆ
傘もたぬ、しかもコンビニ見あたらぬ終電車の刻しだいに迫る
終電車一本まえに間にあいて酔客すくなきことに驚く
一ー三月期が底と言いたる者のふえ大盤振る舞い補正のおかげ
エコカーに買い換えるならば減税に補助金くわえて千円高速
在庫調整終わりて生産うわむくと株価上昇、雇用なきまま
目の奥に痛みののこる夕闇にひかり輝く大観覧車
平衡感覚狂いて見ているだけでただ目のまわりたるメリーゴーランド
いくつか、村上春樹のインタビューを目にした。最も長いものは、「クーリエ・ジャポン7月号」巻頭インタビュー。
その中で村上春樹は、「実際、僕の仕事は嘘をつくことなんです。現実に色を添えること、想像豊かであること、人を楽しませること。もしかしたら、それは僕の人格の一部なのかもしれません。現実を別の形で表現すること。フィクションは”大いなる嘘”です。小説を書くとき、僕はできるだけ上手に嘘をつかなくてはならない。”偽のレンガで、真実の壁を築くこと”、それが僕の仕事です」と述べている。
また、相前後するが、「嘘をつくのが仕事の場合、誰よりも『真実』について知っていなくてはなりません」とも述べている。
周知のとおり、『1Q84』はオウム裁判の傍聴をもと書かれたものだが、村上の言葉通り、「偽のレンガで築かれた真実の壁である」と解して読み進めることが極めて重要である。
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