日本フィル東京定期、広上のショスタコーヴィチ〈1917年〉
7月5日、横浜でのドボルジャークに感心し、急遽チケットをとって、広上が指揮する日本フィル東京定期を聴いてきた(2008年7月12日、於:サントリーホール)。
今回は、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番ト短調とショスタコーヴィチの交響曲第12番ニ短調〈1917年〉である。先日のドボルジャークと同様、広上がシンフォニーをどう振るかとうことに注目した。
この〈1917年〉は、1960年頃の作曲、「レーニンの想い出に捧げる」という副題がついている。当時、半強制的に共産党員にさせられていたショスタコーヴィチが、こうした曲を作曲することは何か裏があると考えるのが自然であるが、その後の研究で、粛正を繰り返した独裁者スターリンのイニシャルが音名象徴として、この曲に組み込まれているという。
革命成就の華やかで、人々の高揚した気分が全編にあらわれる一方、スターリンの動機が明確なかたちであらわれて徐々に支配し、不気味さを増幅させていく。スターリンにショスタコーヴィチは、その音楽性を批判されたというが、作曲技法により、痛烈に批判の気持ちを込めたというのが真実のようだ。
そうした楽曲であることを事前に理解しなくても、この曲をひとたび聴けば、ショスタコーヴィチが生きた時代のソ連邦という国の有り様はわかる。一楽章のスターリンの動機とされる不気味な旋律の提示、二楽章の死すら感じさせられる静謐さ、三楽章の打楽器群の連打(これは砲撃だろう)、四楽章のスターリンの動機の再来、支配というかたちで、複雑でかつ精緻なアンサンブル、はげしい金管の咆哮、打楽器の連打が繰り返される。
広上の指揮は、そのバランスに意を払い、ホール全体を楽器に仕立てることに成功した。特にメロディアスな旋律では、抑制を利かせながらも弦楽を波打たせ、ただただ激しいだけではない金管のフォルテ、ニュアンス豊かな木管を引き出し、この曲の魅力を高めた。
日本のオケで、これまで立派にショスタコーヴィチが演奏されたのを私はこれまで聴いたことがない。目をとじ、今どこにいるのかを忘れるようにすると、暗く寒いモスクワの裏町にいるような気分になる。
人々の生活を犠牲にしつつ、核開発、宇宙開発に励んだソ連邦というドグマが、21世紀の初頭、日本という能天気な国の上に、まるで無色、無臭の放射線のように降ってきているのではないか、という気分にさせられる。
各楽章、切れ目なく演奏される大交響曲を聴き通すと、歴史の針を自由自在にもてあそぶ悪魔の存在すら感じてしまうのだ。ショスタコーヴィチの譜をもとに広上のつくる音楽が、現代日本への警鐘に聞こえてきたのは私だけであろうか。
ps:ボリス・べルキンのヴァイオリンによるプロコフィエフは立派な演奏だったが、どうも私には、この曲の魅力がわからない。冒頭演奏された武満の「3つの映画音楽」が非常に聴きごたえのあるものだったことを考えると、この曲だけが今回の公演のなかで浮いてしまっているような感じがした。
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