外国の地名 ー舫としての役割を考えるー 2003年10月
読者のその地名に対する認知の程度にも左右されるが、短歌において地名は、読みにある一定の幅を用意する。特に外国の地名はその傾向が強いが、うまく用いると読者の興味や関心、あるいは憧憬をベースとして、読者を作品につなぎ止める舫としての役割を果たし得る。
本稿では、一.作者が海外で生活をし、そのリアリティを引き出すために地名を用いた歌、二.作者が海外の旅先で見たもの、感じたものを端的に表わす必要性から地名を用いた歌、三.海外の土地に実際に居る居ないに関係なく、比喩として外国の地名を用いた歌に分類し紹介する。
一.赴任・移住地での歌
歌人が海外に赴任し、彼の地で詠んだ歌としてまず取り上げなければならないのは、茂吉が留学・研究の目的で滞在したウィーン、ミュンヘンでのものであろう。
ドウナウの流れの寒さ一めんに雪を浮べて流るるそのおと 斎藤茂吉『遠遊』
茂吉は流れに見入るなかで、それに音が伴っていることに気づく。視覚と聴覚にズレを感じるが、当時の心境を端的に表わしているように思う。帰国後の作品のなかには、このような歌もある。
Munchen にわが居りしとき夜ふけて陰の白毛を切りて棄てにき 同『ともしび』
ミュンヘン時代を回想した歌であるが、壮年茂吉の姿がそこにある。
今日、研究のために海外に渡る日本人の数は、茂吉の時代の比ではない。以下の歌は、松平盟子が与謝野晶子研究のために一年間フランスのパリを中心に滞在した際のものである。
小雨ふるトゥールの街のカフェに座し温まるまでの緋のマフラー 松平盟子『パリを抱きしめる』
モンマルトルその丘に立てば銀灰の真冬のパリがすべて展がる 同『パリを抱きしめる』
本書は歌集ではなく、エッセイと短歌を一冊にまとめたもので、作者のフランス滞在の様子が克明にわかる。本書での記述によれば、トゥールは、鉄幹、昌子が和田垣という研究者とともに滞在した古都で、フランスで最もきれいなフランス語が話される土地だという。
生活のために一時、米国に移住していた川野里子の作品も興味深い。
光粒子なほカリフォルニアに遍在し君は死にしか死を解けぬまま 川野里子『青鯨の日』
アリゾナの軽き骨笛あかるさに負けて死にたる獣を鳴らす 同『青鯨の日』
優しく、ゆったりとした詠いぶりが特長の川野の作品のなかで、際だって厳しい眼差しを持つ作品である。「光粒子なほ……」は、必要以上に光の満ちるカリフォルニアで死を迎えた「君」への挽歌であろう。歌集全体を引き締める重要な役割を果たしている。
小島ゆかりも米国での生活経験を持つ。
アメリカで聴くジョン・レノン海のごとし民族はさびしい船である 小島ゆかり『ヘブライ暦』
多民族国家米国あってジョン・レノンを聴きながら、同じ民族に属する人々が寄り添う姿を大海原に浮かぶ船だと表した。ジョン・レノンが追い求めた価値が何であったか、今こそ考えてみたい。
比較的若い歌人では、日本語教師として中国赴任の経験がある大口玲子の歌に、この時代を感覚をみることができる。
一九九五年、中華人民共和国吉林省長春市
新京とかつて呼ばれし街いつもどこかで何か焼く匂ひして 大口玲子『海量』
長春図書館
その上になべて「偽」のつく満州にかかはる二万冊並びをり 同『海量』
決して奇をてらうような捉え方はされていない。海外で暮らすようになると自分が日本人であることを強く意識すると言われるが、大口の作品には、そのことが確信をもって示されている。しかし満州もその首都新京も、もはや世界地図上に存在しない地名である。
二.旅先での歌
旅先での歌、旅行詠には、作者の感情の露出がなんらかのかたちでみられることが多い。作者にとっては非日常の場に、その時限りの自分を置くことの興奮が隠しきれなくなるのか。しかし優れた旅行詠には、冷静に状況を切り取り、詩として昇華させるプロセスがある。
シリアの兵は銃を小脇にレバノン兵は迷彩服で人を整理す 高瀬一誌『火ダルマ』
作者が、レバノンの首都ベイルートを訪れた際の歌である。同じアラブの軍兵であっても、威嚇する方法が異なるということだが、これはイスラエルとの政治的距離によるものなのだろうか。本歌集には、
太陽の地中海がひかりをくれるが坂の上までレバノンかなし 同『火ダルマ』
という作品もある。地中海の溢れるばかりの陽の光も、坂の向こう側には決して届かないのだ。
以下も、作者独自の洞察をもって読者に推考を求めようとするタイプの作品である。当然、受け止める側にも相応の力が必要となる。
時を売る時間廊なる闇を抜け彌敦道で遇う日照り雨 谷岡亜紀『香港 雨の都』
紛れなくわれも亜細亜の一人にて風の怒号の城市に迷う 同『香港 雨の都』
本書は、作者が中国返還を翌年に控えた香港を訪れた際に実体験したアジアを、現代詩と短歌で綴ったものである。作者は、幾度も香港などアジアの都市を彷徨することで、アジア人である自分を確認し、またアジア人がわかりやすく生きていることを理解するに至った。
作者に技量があれば、旅先でこのような歌も生まれる。
火の鳥の卵をふいと盗み出しイオニア海を渡るゆふぐれ 紀野恵『La Vacanza』
無沙汰なる神々を招べシチリアは夏に火を連らね祝ぎ歌うたふ 同『La Vacanza』
どんなに世界が狭くなっても、私たちが行ったことのない場所で、みたこともない光景が展がっている。それに遭遇した歌人は、どのようにして歌にすべきか、とても重要なテーマであろう。
もちろん旅先にあるのだから、もう少しリラックスして、歌に気分を乗せることが許されても良い。
二両連結の胴長バスはギュー詰めの人運び行く北京の朝け 奥村晃作『ピシリと決まる』
上海の「豫園」観終えて浅草の仲見世のごときお店が楽し 同『ピシリと決まる』
教職を定年前に辞した作者は、自由人として国内外の方々を歩き、作品をものにしている。ただごと歌の本領として、みたまま感じたままの異国は、かえって読者の興味をひきつける。
海外に出ないと経験できないことは数多くあるが、これなどはインドならではのことであろう。
オールドデリーむこうに見えて夕焼けのような恍惚バングを吸えば 江戸雪『百合オイル』
インドの街角では今でも大麻を吸わせたり、それをラッシーに混ぜて売る露天があるという。バングは大麻のことらしいが、作者はその土地を知る手段として、あえてそれを体験してみたのだろう。
三.比喩として外国の地名を用いた歌
地名の持つイメージを歌に活かす修辞法として、例えば和歌の時代には歌枕確立された。しかし歌枕は、作者と読者が共有できる世界が予めあって、地名により導かれる事柄、現象は極めて限定的である。
翻って現代短歌では、作者の行動範囲や興味、関心によって用いられる地名とそのイメージに際限はない。そのため多くの読者は、その土地のことを殆ど知らないまま読まされることになり、その結果、つかみ所がないと感じてしまう惧れがある。しかし現代の歌人は、それを承知の上、一つの修辞法として外国の地名を用いるのであろう。
無花果のしづまりふかく蜜ありてダージリンまでゆきたき日ぐれ 小中英之『翼鏡』
夕暮れ、作者はひとり、濃厚な時間のなかにある。そしていつしか、自分がどこまででも行けるような気分となり、どうせ行くのならば「ダージリン」と心に決める。しかし陽が落ち、その心も次第に静まる。そうした心の揺れをこの歌は見事に表現している。
ここはアヴィニョンの橋にあらねど♪♪♪曇りの日のした百合もて通る 永井陽子『ふしぎな楽器』
童謡「アビニョンの橋の上で」で知られるフランス・ローヌ川にかかる橋のイメージは、軽やかなものだ。童謡の歌詞「輪になって踊ろよ……」からイメージされる、うきうきした気分を無音の記号句「♪♪♪」が受け止めている。視覚的にも美しい歌だ。
地下鉄に瞑目りをればアマゾンの大逆流ふいにわが胸奔る 影山一男『空には鳥語』
アマゾンのポロロッカは、大潮の日に起こる川の逆流現象で、百キロメートルもの距離を川岸の樹木をなぎ倒しながら逆流する。満員の地下鉄のなかで、おそらく手足の自由を奪われたまま運ばれていく作者の心にも、激流が走っているのであろう。
おほいなる無価値こそ人を悩ましむやオホーツクオホーツクわれは地をゆく 坂井修一『群青層』
これは科学者の嘆きか。科学者は誰しも、世の役に立つ仕事をするという目標を持ちたいのだろうが、当面役に立たない無価値とも思えるものを研究対象にせざるを得ない状況に作者は、「オホーツクオホーツク」という、一見無意味な句を用いて嘆いてみせたというところか。しかし結句の「われは地をゆく」という覚悟は、尊敬に値する。
エコー写真の胎児を見れば思い出すアリゾナ砂漠でロケしたアポロ
大田美和『現代短歌最前線 上巻』(歌集未収録作品)
ざっくりとした比喩が魅力の作者だが、この歌の比喩には驚く。自分の子がうごめく子宮を映したエコー写真が「アリゾナ砂漠でロケしたアポロ」だというのは、奇抜だが実にリアリティがある。
サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい 穂村弘『シンジケート』
これこそ、究極の「比喩として外国の地名を用いた歌」だろう。「サバンナの象のうんこ」など、語りかける対象としては全く非現実的だからである。そのようなあり得ない相手にしか、自分の気持ちが伝えられないとしたら、まことにかなしい。
最後に紹介する歌は、夢と現実が交錯するような不思議な構成の歌集のなかにある。中空からではないと把握できない、半島や大陸の名前からは、ある種の神話性を感じとることもできる。
飛行船ただよう天よりくる風のかの世なるべきスカンジナヴィア 井辻朱美『吟遊詩人』
ふるき世のパンゲア大陸よりわれに輪廻のはての陽がそそぐなり 同『吟遊詩人』
作者は、自身のアイデンティティをこうしたスケールのなかで確認しようとしているのだろう。十分に読み切れないが、「スカンジナヴィア」も「パンゲア大陸」も十分、舫としての役割を果たしている。
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